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TANKUMA SPECIAL INTERVIEW

【TANKUMA SPECIAL INTERVIEW】Vol.43 映画監督・脚本家/片島章三

「向かい風でも、逆転の発想で思いを貫け。」

  • 情報掲載日:2019.11.22
  • ※最新の情報とは異なる場合があります。ご了承ください。

向かい風でも、逆転の発想で思いを貫け。

 今でこそドラマや映画を観るときに、その作品性を推し量る手段のひとつとして、脚本家の名前をチェックするようにはなったけれど“脚本家”という存在を知ったのは、将来の夢を考えはじめた頃より、ずっと後だった。「いわゆる映画少年でも、映画青年でもなかったんです」と、飾らず語る一人の脚本家の言葉の奥に、声にならない無数の想いを感じた。映画界の第一線で活躍する監督たちに慕われ、ともに数々のヒット作を生み出し、自身も監督・脚本家として現場に向かう片島章三さん。映画というものづくりの現場で生きてきた彼の眼に、世界はどんな風に映っているのだろう。熊本の1人の少年が上京し、映画業界を駆け抜けていくストーリーを通して少しだけ覗いてみよう。

苦い初デートの記憶とともに
心に根差した映画の種

 『Denkikan』をはじめ、いくつかの映画館が点在していたものの、今のように映画館が身近でなかった幼き日。片島さんが映画に触れる機会といえば、もっぱら家族のお伴だった。「父親に映画館に連れて行かれると『最後の特攻隊』をはじめとする特攻隊もの一辺倒でしたし、姉と行けば『メリーポピンズ』や『サウンドオブミュージック』など、もっぱらミュージカル映画ばかりでした」と、当時を振り返る。

 中学になった頃、女の子と初めてのデートで映画を観に行った日のこと。「当時、映画館では同じ時間帯に2作品が上映されていました。そもそも彼女がソフィア・ローレン主演の『ひまわり』が観たいというので出かけたのですが、僕は映画館の入口で見かけた『ヤコペッティの残酷大陸』という映画がどうしても観たくなって、彼女と一緒に来たにもかかわらず、別々のスクリーンに入ってしまったんです。その後、ほとんど言葉を交わすことなく過ごした苦い思い出があります(笑)」。それから時を同じくして再び映画館へ出向き、『モダンタイムズ』に代表されるチャップリンの存在を知る。“映画ってなんて面白いんだ!”と言いようのない感動を覚えたとか。「だからといって映画の道に進むとは思いもしなかった」とはいうものの、彼女と別々のシアターに入ったあの日以来、章三少年の心に映画が根差していたことは間違いない。

偶然の出会いから映画の世界へ
一本のネギが心を開く鍵に

 高校を卒業後は、大学進学か就職か、という狭間で迷いつつ単身東京へ上京。バイト生活を続ける中で、コメディアンの付き人をしている仲間と出会い、話の流れで自身も付き人のアルバイトをすることに。「今や誰も知らないかもしれないけど、ギャグメッセンジャーズという3人組のコメディアンが居たんです。付き人である僕の主な業務は、動物の着ぐるみの中に入って、ステージに立つこと(笑)。その頃の仲間が、時折8ミリフィルムで自主映画を製作していて、僕も手伝うようになりました。そうこうする内にサラリーマンをやるより、映画の世界で生きるのもいいかなぁと、思い始めたんです」。20歳になっていた片島さんは、横浜の映画学校へ進学を決意。“やるからには監督を”と、監督業へ漠然とした憧れを抱きつつ、ひたすら撮影のノウハウを学んでいたという。

 ところが卒業後、片島さんが就職先として選んだのは、映画界ではなくコマーシャルの世界だった。今よりずっと華々しい広告制作の世界でいよいよ頭角を現すのかと思いきや、一筋縄ではいかないのが常。「僕が入社したのは、プロデューサーと呼ばれる人が2人しかいない小さな制作会社でした。片方は、誰でも一度は聞いたことのあるような大手企業をクライアントに持つバリバリのCM畑の人。そしてもうひとりは、完全な窓際族……。新入社員は僕ともう一人居たけれど、その同期の親が大手広告代理店の重役で、当然のように僕は窓際の上司のもとに配属。仕事はまったくなくて、半年間は延々と会社の掃除ばかりでした(笑)」。社会人になった片島さんに待ち受けていたのは、文字通りの下積み生活だったのだ。半年後、ようやくもらえた仕事は、とあるデパートの社内向け建設記録映画を作る仕事。「会社的には何の旨味もない仕事だったようで、会社からは新入社員の僕一人が出向き、ほかはフリーのスタッフで賄うという塩梅。監督は80歳、カメラマンは75歳くらいのおじいちゃんとその助手という実質4人のチーム編成での制作。僕は照明、録音、制作、車両、その他もろもろ全部担当しました」。ただでさえ緊張する初めての現場で、いくつもの任務をこなし、四苦八苦する片島さん。そんな中、事件は起きた。タイトなスケジュールの中、真冬の畑で撮影をしていた時のこと。前の現場から次の現場へと到着した一行は、撮影を再開しようとするが、肝心のカメラを回すパン棒がないというハプニングが起きた。一瞬にしてその場の空気が凍る。「ふざけるな!! 何やってんだ!!」と、撮影助手の怒号が飛ぶ中、追い詰められた片島さんがカメラマンに差し出したのは、真冬の畑でカチカチに凍った一本のネギ……。「これで何とかなりませんか?!」という片島さんに撮影助手は大激怒。そんな中、カメラマンのおじいさんは「そうか。ちょっと貸してみなさい」と、そのネギを三脚に差し込む真似事をしてくれたというのだ。もちろんネギは、握ったそばから手の温かみで溶けてふにゃふにゃになってしまうのだけど――。「そのおじいさんカメラマンは、高齢ゆえに普段からカメラを回していても手元が覚束なくて〝大丈夫ですか!〟なんて言いながら毎回撮影を進めていましたが、ある時、食事の席でテレビドラマを観ていたおじいさんカメラマンが、女優さんのアップのシーンを観て”こんなアップはいかん!”と持論を展開し始めたんです。“どんなに人が小さく映っていても、画が力強ければ、観る人には力強く見えるんだ!”と。いつも頼りなく感じていたカメラマンの言葉に目が覚める思いでした。その方と過ごした時間があったからこそ、改めて映画の世界を目指そうと思えたんです」。実はその“おじいさんカメラマン”は、鈴木清順監督の“肉体の門”をはじめ、150本以上の映画を手掛けてきた日本映画界の先駆者であり、数々の著名人を撮ってきた人物だったとか。物事の深淵を覗けば、内に広がる世界は、とてつもなく深くて、広い。そのことを、身を以て教えてくれた貴重な出会いとなった。

どんな時も自分を信じて
よりよい表現を探求し続ける。

制作会社を辞め、遂に映画の世界に飛び込んだ片島さん。1987年に公開された『私をスキーに連れてって』を皮切りに、これまで約30作品を世に送り出してきた。30代になった頃から、自身で脚本を書きはじめるように。その理由を尋ねると「僕の場合、他人の脚本を映像化するのは、面白味が半減すると感じていたからです。かといって、いつ映画化されるともわからない自分の作品を書き続けるのは、しんどい部分も多々あります。それでも書きたい話はたくさんあったから」と、自らの挑戦の日々を顧みる。とはいえ、監督と脚本の両方を手掛けるのは、並大抵の才能や努力で叶うことではない。「今回『カツベン! 』でご一緒した周防正行監督をはじめ、三谷幸喜監督や矢口史靖監督も自身で監督・脚本を手掛ける作家性の強い方々と仕事を重ねてきたことで受けた影響は大きいですね。そして、何よりエンタメが好きなんですよ」と、自身の気持ちを確かめるように口にする。「怪獣映画の『ゴジラ』をご存知ですか? あの映画はスタジオに申し分ないセットが組まれていました。だからこそ俯瞰で全体を撮影するカットが多く使われているのですが、一方で僕が携わった『ガメラ』は、予算もほとんどなかった。だから、まずカメラのアングルを決めて、映り込む世界だけを細かく作り込みました。低予算がゆえに人間と同じ下からのアングルから撮ることで、かえって迫力のある映像が撮れたんです」。どんな条件下でも、目の前にある仕事に全力で関わり、よりよい表現を探求する姿勢は一貫している。長年タッグを組んできた周防正行監督とともに自身の脚本の映像化に挑んだ最新作『カツベン! 』は、まだ映画に音のなかった時代を生きる人々の日常を心の虫めがねで覗き込み、色鮮やかに描いた。人生に吹く風は、いつも追い風だったわけではない。けれども、逆転の発想を教えてくれたのも、また映画だ。

Profile

Syozo Katashima
Syozo Katashima
片島章三(かたしま しょうぞう)

1959年、熊本県生まれ。熊本西高校を卒業後、上京。横浜放送映画専門学校(現日本映画学校)に進学。国際企画(株)を経て映画の世界へ。主な作品は『マルサの女2』『ガメラ―大怪獣空中戦』『ウォーターボーイズ』『舞妓はレディ』『ザ・マジックアワー』他。最新作『カツベン! 』では脚本・監督補を担当

Information

映画『カツベン!』2019年12月13日(金)公開

【脚本・監督補】
片島章三

【出演】
成田凌  黒島結菜 永瀬正敏  高良健吾  井上真央  音尾琢真 竹中直人  渡辺えり  小日向文世  竹野内豊

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