1. Home
  2. トピックス
  3. TANKUMA SPECIAL INTERVIEW vol.38 「SF作家・梶尾真治」

TANKUMA SPECIAL INTERVIEW

TANKUMA SPECIAL INTERVIEW vol.38 「SF作家・梶尾真治」

  • 情報掲載日:2019.06.21
  • ※最新の情報とは異なる場合があります。ご了承ください。

小説家が熊本のためにできること。

 自身の似顔絵が入ったB6のオリジナル原稿用紙に今も手書きで綴る、少し丸みがあって読みやすい文字。「出版社の人から『読みやすい字じゃないと、印刷所の方を困らせます』って聞いてから、こういう丁寧な書体に変えたんです。そして、最後の行まで必ず書いて文字を埋める。私なりの美学ですね(笑)」。原稿用紙を渡した先まで考える優しさ、文字を読ませながらも美しく魅せるためのこだわり、そしてイメージをはるかに超えた意外な物語を生み出す想像力。熊本に住みながら長年、SF作家として活躍を続ける梶尾真治=カジシンさんは目を細めたその笑顔の中で、どんな経験を紡いできたのだろうか。

活字と映画に出会った少年時代。そして原点となったあの日

 「活字中毒。本が無くなると禁断症状が起きるんじゃないかな」と言うほどの本好きは、幼少期から変わっていない。1週間のうち5日間は寝込むほど病弱で絶食になることも多く、楽しみは本を読むことと、病が治ったときに食べる美味しいものを夢想することだった。特に外出ができない時には家にある本を何度も読み重ね、「幼稚園に入るころには漢字の読み書きもできるようになっていた」そうだ。また映画も好きで、「今のニュースカイ(※1)近くに1日2〜3本立ての『東雲劇場』があって、父の会社の若い従業員に勝手について行きました。大人が煙草をスパスパ吸っているところで、映画を楽しんでいましたね(笑)」。そんな時、後に作家となる真治少年にとって心に強く残る出来事が起きた。1953年6月、400人を超える行方不明者を出した水害だ。「世の中が泥水で埋まっていたり、馬が屋根の上で死んでいたり……。大雨で破壊された街を見た時、怖いと言うよりも『自分が知っている今までの日常的な世界と全然違うものがある!』と思って、ちょっとドキドキワクワクしたんです。その後映画で見た、ゴジラが東京を破壊する時のワクワクと共通していることに気づき、『自分はこういう非日常の世界が本質的に好きなんだな』と。大洪水に見舞われた熊本の風景とゴジラの映像が重なりあったあの日が、私の原点なんでしょうね」。
 その後、〝ショートショートの神様〞とも評される星新一の作品を読み、「10枚にも満たない中に起承転結と意外
な結末があって、『これならひょっとしたら自分でも書けるんじゃないかな』と思って(笑)」、小学6年頃から創作活動を開始。中学2年で全国的な同人誌『宇宙塵』に入り、高校2年で九州のSFファンと共に同人グループ『てんたくるず』を結成するなど行動力を発揮する。さらに高校3年の時、SFマガジン裏表紙で見た懸賞に応募して採用され、本1冊150円の時代に初めての原稿料6,000円と万年筆を手にした。「『こんなにもらえるんだ!』と、単純に嬉しかった。それまではパンを買うためのお金を浮かせて本を買っていたから、賞金はほとんど本に使ったんじゃないかな」。しかしその時、作家になろうという想いは全くなかった。「6,000円貰った時も、それで常に儲かるとは思いませんでした。ただいろんなアイディアが次々と湧いてくるし、好きだから書いていたんです」。

※1=現在のANAクラウンプラザホテル熊本ニュースカイ

仕事と執筆を両立した約25年。『黄泉がえり』が専業を後押し

 福岡大学を卒業した後は家業を継ぐために2年間、名古屋の石油会社に籍を置いた。一人暮らしのアパートにはテレビがなく、「冷えたビールを飲みながら本を読み、ストーリーが思いついたら書いて、それを同人誌に送って」という日々。その中の作品『美亜へ贈る真珠』が商業誌『SFマガジン』に転載され1971年に作家デビューを果たし、同時期に熊本に戻って家業であるカジオ貝印石油会社に入社した。「仕事を始めたら業務をこなすのが精いっぱいで、小説を書く余裕が無い期間が6〜7年ありました。ただ『書きたいものがあるのに、このまま一生を終えたら嫌だな。夜は書けないけど朝書こう』と思って、早朝4時半〜7時に時間を作るように。1日に2〜3枚だから長編は書けないけど、2ヶ月に1回くらいのペースで、50〜60枚の短編を書いていました」。
 その頃の梶尾さんはメディアに登場する際、いつもイラストレーター・百鬼丸さんが描いた似顔絵だったことを読者は覚えているだろうか。「昼は硬い仕事をして、夜は大袈裟に作った〝ほら話〞を書くわけでしょ。昼の仕事でお付き合いをしている方に対して、『いい加減な気持ちで昼間の仕事をしているんだ』って言われたくなかったんです」。一切メディアで顔を明かさなかったのには、そんな律儀な理由があったのだ。
 そして「ビジネスと作家業を完全に切り離していた」という長年の両立生活の中から、熊本日日新聞連載として1999年に『黄泉がえり』が生まれ、さらに2003年には草彅剛主演・RUI(柴咲コウ)主題歌の映画としても公開され大ヒット。その後、50代後半を迎えた自身の年齢も考えて2004年、専業作家になることを宣言した。あの『黄泉がえり』が、12年後となる2016年に改めて注目されることなど思いもせずに。

あの経験があるからこそ、作家としての使命感を形に

 『黄泉がえり』は熊本市が舞台で、一度亡くなった大切な人が次々に黄泉がえる……という物語だ。梶尾さん自身が「全くの偶然」とは言うものの、ストーリーには発生場所も規模も、あの大災害が起こることをまるで知っていたかのようなリアルな展開が含まれている。そのことから「作者は熊本地震を予言していた」という声が上がり、全国的にも大きなニュースとなった。「『こんなこと書いてたのかよ!』って、自分でもゾクッとしましたよ。私にはそんな不思議な力は全くないですから、あくまでもストーリー上で最適な場所を調べただけなんですけどね」。
 熊本地震発生時、梶尾さんは熊本市の自宅にいた。『つばき、時跳び』の舞台にしたその自宅は半壊となり、年末に新居を再建するまで娘夫婦が暮らすアパートに身を寄せて暮らした。「私だってもちろん落ち込みましたし、同じように傷ついた熊本の人たちに小説家として何ができるんだろう?って凄く思ったんです。私が皆さんを元気づけるには小説しかないし、書くんだったら今しかない。だから私から、連載をさせて欲しいとお願いしたん
です」。
 そして2017年7月〜2018年12月に熊本日日新聞夕刊で掲載し、「この作品は〝生もの〞だから、地震から3年以内に読者に届けたい」と3月3日に文庫本として上梓したのが、続編となる新作『黄泉がえりagain』だ。熊本に深い縁のある歴史上の人物や生物、偶然にも伏線となった前作から繋がる黄泉がえりの数々に心躍らせ、涙した人も多いだろう。「少しずつ復興が進んでいるのは肌で感じていたので、『明るく清々しい気持ちで終らせたい』というのはありました。そして皆さんと感じていること、見ているものが一緒で双方向の関係性ができたから、その反応が楽しいし嬉しいですよね。ビンビンと伝わってきます(笑)」。
 今夏には、くまもと文学・歴史館(熊本市)で寄贈した書籍や原稿を元にした企画展『梶尾真治の世界展』が開催され、来春には大林宣信監督の映画『つばき、時跳び』の公開も予定されている。また新作にも意欲的に取り組んでおり、「今までとは全く違うアプローチの書下ろし長編もあるし、グロい話も書きますよ」とニヤリ。ネタ帳はないと言うが、頭の中には創作の種がまだまだありそうだ。
 またどんな時も自然体で、豊富な知識と記憶力を持ち、ユーモアも忘れない梶尾さん。そんな魅力的な大人に、どうしたらなれるのだろうか。「好奇心を無くすな。目の前に紐があったら引っ張ってみる、穴があったら覗いてみる。億劫に思わず、フットワークを軽くすることかな」。
 場所も時間も超えた世界に人々を引き込む、言葉の力とキャラクター。それこそが、熊本が誇る〝宇宙人〞=梶尾さんのパワーなのだろう。

プロフィール/梶尾 真治
1947年生まれ、熊本市在住。五福小・藤園中・マリスト学園高校・福岡大学経済学部と進み、名古屋での生活を経て家業・カジオ貝印石油に入社。1971年『美亜へ贈る真珠』でデビューして長年に渡りビジネスマンと作家を両立させたのち、2004年に専業作家に。趣味は読書・映画鑑賞・山歩き
1947年生まれ、熊本市在住。五福小・藤園中・マリスト学園高校・福岡大学経済学部と進み、名古屋での生活を経て家業・カジオ貝印石油に入社。1971年『美亜へ贈る真珠』でデビューして長年に渡りビジネスマンと作家を両立させたのち、2004年に専業作家に。趣味は読書・映画鑑賞・山歩き

関連記事

SNS